昭和45年12月21日 朝の御理解



 御神訓 一、「障子一重がままならぬ人の身ぞ。」

 信心は、ここのところを教えるためにあるというてもいいと思うですね。信心はね、障子一重がままならぬ人の身であると言う事を分らせる為にあると。ですから、その障子一重がままならぬ人の身であるという事を分ったら、どういう事になるかというと、ね、信心はさせて頂かなければおられんのであり、熱心にならなければおられんのであり、我情我欲はとらなければおられんのである。もう全てがここにあるんです。
 まあだ、自分の才覚とか、自分の知恵、力といったようなもを、が、あるところに、信心に熱が入らない。本気での信心になろうとしない。只、おかげを頂きたい為に、一生懸命に改まろうとか、お参りしようとかと。いうたらね、おかげを頂いたら、もう改まりを止めます、信心をゆるめてしまいます。ですから、もうだいたい信心が、そういう信心が多いところにですね、私は本当に神様の何と言うかね、悲しさというようなものがおありになるのじゃなかろうかと思う。本当のところに元ずかないところに。
 それは、理屈を聞けばね、成る程、障子一重がままならぬ人の身であるとゆうことはすぐ分るんですけれどね、ね、心がそれをそうであると承認する。本当に障子一重がままならぬ人の身であるということを分らせて頂くために、色々精進させてもらう。修行さしてもらう。それはね、様々な事態に直面するたんびに、それは感じる事ではありますよね。いわば病気でも致しますと、確かに自分で自分の思う様にならない。
 五体一つでもそうなんだ。事の事態、世の中の全ての事が自分の思うようになるというようなことはない。本当に障子一重がままならぬ人の身だ。それが大変難しい問題に直面したり、ね、いわば病気になったり致しますとね、それは感じます。私は、だいたいみんなが大食じゃ、評判してるんですけれども、昨日、私はご飯を茶碗半分くらい頂いただけです。好きなお酒も昨日は一つも美味しくない。
 いうなら百味の御食のように御馳走があるから、ね、頂いたら良かろうようにありますけれども、さあ頂こうという心が起こらん。体が要求しない。本当に自分な毎日ご飯を、ま、いわば二回の二回ですかね、二食ですからこの茶碗で三杯はもう頂くのは当たり前のように思うておる。けれどもその当たり前の事が出来ない。それを無理してもし頂きよったら、それこそ苦しい事になってくる。美味しいお酒が美味しくない。
 ですからそういうことに直面すると、自分が食べよるとじゃないな、飲みよるとじゃないなと。神様のお許しを頂かなければ、おかげを頂かなければお食事一つが喉を越す事を許されんのだということが分る。だから、許されて飲ませて頂く。夕べ、お直会の時、家内に話したことですけれども、あの「もう先生、頂き過ぎやせんですかと、おまえが言うときが一番おかげ頂いている時だね」て、私は。
 私がお酒をもう一本と言う時には、もうはぁもうおかげを頂いてある時と思うてから、これからもちっと素直にハイちちからつけにゃいかんよちてから笑話したことです。お父さん、もう一本つけましょうか、もう一杯どうですかと、どっこい体の方が要求しない。最後のお杯一杯がどうも入らん、ね、人に頂いてもらわにゃいけん。ね、ですからね、例えばこれは体の事。そんなら、一つの難しい問題なら問題に直面する時です、どうにも出来る事じゃないなと分る。
 人間関係でも同じこと、どんなに例えば人使いの上手な人であってもです、ね、要領をもって使う事は出来る。体を使うはできるにしても、その人の心までも使うことは出来けれない。ね、本当に、正に、障子一重がままならぬ人の身であるんです。体のこと人間関係の事に於いても、むずかしい問題に於ても、人間の知恵、力でできることは何にもないと分からしてもらう。
 けれどもね、その事の全てがね、そうだと心に感じさせてもらう。どう言うような生き方、信心にならせて頂いたら、それを本当に所謂心がそう叫ぶということですね。神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのだと、それでも幸せになりたい、私共は。そこで、なら、その神様がその幸福というか、幸せの鍵を握ってござるという事がまあ、段々分らせてもらいますよね。ですから、その神様の心に添わせて頂く事に、本気に努めなければおられなくなってくる。
 障子一重がままならぬ人の身であるという事が分ると、ね、信心が熱心にならなければおられんのであり、ね、もう、いよいよ、成る程、その神様のおかげを頂かねば立ち行かん。しかも立ち行き方がです、素晴らしい立ち行きのおかげを頂こうと思うならば、その神様のお心に添わなければおれない事になってくる。大きなおかげを頂きたいと思うなら、思うほど、その神様のお心に添うて行くという気にならなければ。
 出来ない言が分かって来る。障子一重がままならぬ人の身であると。いわゆるもうどうにも出来ない事実である。その事実をです私共が分かろうとしない人があったり、分ろうとしても中々、それが心からそうだと分るという事が難しい。ぎりぎり決着のところ、その事を通して本心の玉を磨く事意外には無いのであり、その事を通して日々の改まりに改まらしていただく以外にはないのである。
 私共の心から願わせて頂く立ち行くおかげ。しかもその立ち行き方がです有難い勿体無いという立ち行きになる。言うならば最も幸福な立ち行き方になる。只立ち行くというだけではなくて、まあいうならば人も羨む様な立ち行き方にならせて頂きたいと、まあそれを願います。お互い。それを願いを強うすれば強うするほどです。だから神様の心に、なら自分の努力で人の羨む様な家を建てよう、人の羨む様な良い着物を着ろう、人の羨むような百味の御食と思われる様な食べ物を毎日食べさせて貰おうと。
 果たして良い家に住んだ。ね、良い食べものを食べて良い着物を着た。果たしてそれで、幸福でないことをその人は必ず知るだろう。それをねもう一生そこに血道を上げて、いわば、その事に苦労しておるとするならです、もうこんなにつまらない話は無い。そして、いわば、死んで行く時に、とうとう得ようとして得られなかった寂しさだけが残るのである。そこで信心とは私共がです、願い以上、思い以上、それこそ夢にも思わなかったようなおかげを頂かせて頂きたい。
 日々が有難い勿体無い、その有難い勿体無いがいよいよ募って行く、大きゅうなって行く、豊かになって行く。そういう例えばんなら信心によっておかげを頂きたいとお互いが願う。その願いを願うなら、願うほど、願えば願うその願いが切であれば切であるほど、そのおかげのかぎを握ってござる神様のお心にです、ね、合流すると言うか、いわば神様の心に添わせて頂かなければおられないという事になる。
 その根本をなすものは、障子一重がままならぬ人の身であるという事が分るからなんです。だから、そこんところが分らずしてです、ね、いかに精進しておるのは、いうならば我情我欲の為に精進しておるという事にしかならん。その通りなんですよ。ね、そこで障子一重がままならぬ人の身であるという事をです、真の隋から、それが分らして頂くという事。そこが分ったらね。
 我情我欲を言わんで済むじゃなくて我情我欲は言うて、我情我欲を言いよったらよったら馬鹿らしゅうなてくるんじゃないでしょうかねえ。障子一重がままならぬ人の身であるということを分らんから、自分でどうか出来る様に思うから、我情が出るのであり我欲が出るのである。そこで御理解三十五節を頂くと「信心は日々の改まりが第一じゃ。毎日元日の心で暮らし、日が暮れたら大晦日と思い、夜が明けたら元日と思うて、日々うれしゅう暮らせば、家内に不和はない。」と言う様な事になってくるのです。
 日に日にさら、毎日が元日の心で暮らすと言う事は、日に日にさらと言う事だと思う。そこから生まれて来る信心体験、その信心体験が自ずと日が暮れたら大晦日と思うというような、今日も広大なおかげを頂いて有難うございます、と言う様な事になってくる。ですから私共がですね、障子一重がままならぬ人の身であると言う事をね、分らせて頂くために、今日も一日修行をさせて頂く。ね、しかも新らな心で。
 いわば元日の様な心で、一日の御用をさせて貰うお許しを頂くと。そこからね大晦日と思えという心は自ずと生まれてくると。必ずそこには信仰体験が生まれてくるからです。言うなら元日の心で言うならば中々、元日の心で言うだけで実際出来ませんけれども、まあ元日と思うて今日はやりにくかこつなんか言わんぞと、色々な努力を致しましょう。ね、その努力をしながらの一日である。
 んならば御教えに忠実である一日である。元日の心で過ごすと言う事は。ですから御教えに忠実に心を寄せさせて貰い、忠実にならせて頂くから生まれてくるのは必ず信仰体験です。成る程教祖様の仰る通りの生き方になれば有難いなあ。おかげが受けられるなあと言う言が分る。だから大晦日の心なのである。今日もおかげを頂いてと言う事になってくる。そういう生き方で行けば、自分の心の中に平和な心も頂かれる。家内に不和のないおかげになって来る。
 結局ねそう言う信心生活をね、させて頂きながらその事をもって改まらせて貰おう、その事を通して研かせて貰うという行き方になる以外はないのじゃなかろうか。そして障子一重がままならぬ人の身であるという事実をです、もう体験の信仰体験の上に積んで積んで積み上げて行く所からです、私は障子一重がままならぬ人の身であると言う様な事はほんとに分るのじゃなかろうか。
 部分的には体が弱か、弱かったり人間関係のこじれた難しい問題であったり、様々な難儀という事に直面して初めてなるほど、障子一重がままならぬもんだなあと言う様な事が分るけれでも、生活の全般においてです生活全体の上にです、それを感じさせて貰うと言う事は所謂この三十五節にある様な精進を日々させて頂く以外にはないのじゃなかろうか。元日でもないのに元日の心になるという事は難しいけれどです、その様にして例えば教祖様の御教えに忠実に成らして頂き取り組ませて頂く。
 それは今日はもう元日じゃから嫌味なこつどん言わんぞと言う様な精進なんである。もう口を開いたら開く時には嬉しい事、目出度い事しか言わんぞという精進である。ね、そこに大晦日の心、所謂一日を締めくくらせて頂いて、有難い勿体無い信仰体験が生まれてくる。そう言う心でです、私共があらゆる場合にあらゆる?に望んでです、成る程障子一重がままならぬ人の身であるという事を分らせてもらう。
 例えばとても、ね、信心を疎かにどん出来ない、神様にお縋りし抜かなければおられない。自分の忙しい自分の都合なんかは全然言えなくなってくる。障子一重がままならぬ人の身という事が分ったら。ですから障子一重がままならぬ人の身であるという事を分らせて頂く事の為に、私共は信心の精進をさせて頂いておると言うてもよい。そしてそれが本当に分らせて頂いたら、私共の信心は愈々、ね。
 言うならば光を帯びてくるだろう。信心そのものが活気付いてくるだろう。ね、心が願い続けるその願いというものがです、切であればあるほどです、神様のお心が分りたい。心がわかった上に、その神様のお心に添わして頂きたいという願いが強うなってくるのである。自分では何も出来ない、出来ないのに神様はこの様に出来させて下さる。言わば夢にも思わなかったようなおかげが日々展開してくる。本当に神様のお働きは恐れ入ってしまうと、という日々なんです。
 所謂恐れ入った生活である。それを実意丁寧な生活と言う事にもなるでしょうね。恐れ入った生活。どうぞひとつ障子一重がままならぬ人の身と、ね、様々ないうなら小さい部分的な事に直面する時です、ね、ならどうせ人間は自分の障子一重がままならぬ人の身だから、ね、もうなるごとしかならんけんでと言う様なものではないでしょう。障子一重がままならぬ人の身であるという事が分る。けれどもおかげを受けたい、より幸福になりたい。そのいうなら幸福の鍵を握ってござる言が。
 ござるのが神様であると分らせて頂く所からです。信心が愈々ね言わばほんとに実意丁寧神信心が出来る様になって来る。そこで実意丁寧神信心のです、生き方を私共が、御理解35節の様な生き方でです。そういう努力をさせて貰う精進させて貰う所からね、信仰体験が生まれてくる。その信仰体験に培われれる。又は支えられて私共が愈々障子一重がままならぬ人の身であるという事をです。もう私しゃこうなった楽だと思うね。
 我情を言わんですむ、我欲を言わんで済む。あなたのおかげを頂かなければ立ち行かんのだからと言うのですから。だからあなた任せになるより他にないのであり、あなたの心に添うより他にないのである。そのあなた任せになるあなたのお心に添いたいと言う事がです、だからより改まらなければ、研かなければという事になって来る。障子一重がままならぬ人の身であると言う事を分らして頂くために、私共は精進しておると言うてもよい。今日はそんな事を申しましたですね。
   どうぞ